よく寺の門前に墨字で書かれた標語が掲げてある。
以前見たものの中で、こういうのがあった。京都では比較的大きい寺の標語だ。
「人に指を差しても、他の4本は自分のほうを向いている」
おそらく、人に指を差して批難などすると、自分に返ってくるんだぞという事をうまく言ったつもりなんだろう。
だが、やっぱりひねり過ぎだ。「人に指差すな」これで十分だ。
ある寺にはこう書いてあった。
「死ぬのが怖いのではなく、無駄に終わる人生がやりきれないのだ」
まるで、死ぬのが怖い理由は、あなたが今一生懸命生きていないからだと言いたげだ。
しかし、これは絶対に違う。例えば病気で苦しんでいる人はどうなんだ。一生懸命生きていても死ぬのは怖いだろう。
これは全ての人に向けるべき言葉では無い。
僕は坊さんのこの手の一言が嫌いだ。嫌いゆえに、わざわざその標語を見てこうして今回のネタにしているほどだ。
「教えのごり押し」と言おうか。門前に掲げるくらいだから自慢の一言なのだろうが、そんなものは信者に説教するだけで十分だと思うのだ。
この前、京都の禅寺へ行った。石庭が有名だと言う事で行ってみたが、入るとまず土産物屋がある。なんて商売っ気丸出しなんだろう。
廊下の壁には大きな字が飾られているが、はっきり言ってしょうもない字だ。字と言うのは書いている人の人柄、ひいては人生まで映し出す。あの字は観光客から金をもらって、今までのほほんと暮らしてきたような字なのだ。
そこの坊さんが、頼んでもいないのに僕らを石庭に案内してくれた。他の客にはそんな事をしていないのに。長髪の僕を見て、こいつには禅の心など教えてあげないとわからないとでも思ったのだろうか。
しかし石庭などは、ゆっくり誰にも邪魔されずに見るからこそ味わい深いものだ。
なのにその坊さんは、石庭に置かれた石を指差し、「ほら、これ亀」「ほら、これ船」と、次々に説明し始めた。僕はすっかり腹を立てて返事をせずにいると、彼は僕らの元を去った。きっと説明しても無駄だと思ったに違いない。
僕にとっては、石がどのように見えるかが面白いのであって、石が何であろうと関係無い。
同じように、人生をどのように過ごすかが面白いのであって、人生が無駄かどうかはどうでもいい。いや、もっと言えば無駄な人生など無いと思う。
そんな事もわからない人がなぜ坊さんをやっているんだろう。
この寺が特別アホなわけじゃない。僕は坊さんの「ほとんど」がこうだと思ってる。
「ほとんど」、つまり数少ない立派な坊さんももちろんいるんだろうが、まだ会った事はない。
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