ウカタマ!

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のだめよりだめ 

2ヶ月くらい前、漫画「のだめカンタービレ」をamazonで大人買いした。

ドラマの一回目を見て漫画の方を読みたくなり、現在16巻まで出ているのだが、まずは1巻から9巻までを買った。漫画では第一部に相当する部分で、ドラマ化するのはそこまでだと言う。僕はそれが面白かったら続きを買うつもりだった。

少女漫画は全くと言っていいほど読まないのだが、実際読んでみると噂どおり面白かったので、僕はその翌日、続きの16巻までを同じくamazonで注文していた。
第二部は一部ほどでは無いが、まあよかった。ちょっと話が強引に進むなあとは思ったのだが。

いいものは他人に勧めたくなる性分。
早速友達に1から9巻までを貸した。そいつも面白かったのか、すぐ読破して返却。続きを借りて行った。



そして昨日、家にまた違う友人が二人呑みに来ていたので、そのうちの一人に1から9巻までを貸すことに。

すっかり酔っ払ってぐだぐだ言ってると、そいつがいつのまにか「のだめ」を読み始めていた。見ているとなんかどんどん読み進んでいる。
おお、やっぱりおもろいか。僕は微笑ましく楽しそうな彼を見ていた。
そしてまた数分後、そいつを見ると本のかなり最後の方まで読んでいた。

「おお読むの早いなあ。おもしろいやろ?」と聞くと、「おもろいなあ」と彼。なんとなくうれしくなり、僕もなにげなく、一冊の「のだめ」を手にとった。

・・・僕はたまげた。僕が手にとった一冊、それは第一巻だった。

「ちょ、ちょっと待って!今何巻読んでるの??」
「え?3巻」

僕ともう一人の友人はこけた。

「何で!?ええ??何で途中から読んでるの???」
「いや、おもろいで」
「いやいやいや、普通1巻から読むし、その、なんというか、第1巻の最初の、のだめと千秋の出会いのシーンから読まなあかんねんん!!」

カルチャーショッキング。彼と話していると時々びっくりする事があるが、3巻から読み出すとは。
たとえば、映画を見に行ったが遅刻してしまい、スタートから15分見逃してしまったとしたら、僕はその回をあきらめて、次の回を待つ。途中から見るのは性格上、我慢できないのだ。
しかし彼は途中から見ることができ、次にもう一度最初から見て、「ああ、最初こうなってたんや」と思うのだとか。

僕はそんなアホなと、彼を非難した。
物語を作るものとしては、一番最初から最後まで真剣に作っているし、張っていた伏線なども無駄になってしまうという事をわかっていないのではないかと思った。しかも漫画だから遅刻したわけでもないのに。
彼の行動は本当にショッキングだった。

++

そんなことがあった次の日、のだめ第二部を貸していた友人からメールがあった。

「あのー10巻が無いんやけど」

あ、ひょっとして渡し忘れたのかもしれない。
10巻が無かったら始まらないではないか。僕は、汚い部屋を探しまくった。しかし、無い。。。
何でだろう?まさか昨日第一部を貸した友達に1から9巻ではなく、10巻まで貸してしまったのだろうか。

うーんと悩んでいたのだが、ふと思い立ち、パソコンを立ち上げてamazonの購入履歴を見ると、僕は呆然とした。

10巻を買っていなかったのだ。。。

amazonはまとめ買いするときも、一冊一冊カートに入れないと注文できない。
つまり、僕は10巻を買い忘れ、第一部を読み終えた後に買った「11巻」を「10巻」だと勘違いして、気づかずに読んでいたのだ。
どおりで、物語が強引に進むわけだ。一冊抜けてるのだから当たり前だ。

何が、途中から読むのは信じられないだ。自分がそうしていたのだ。
バカにした友人には、今日のウカタマを楽しみにしておけと言っておいたので、ここで謝罪する。すまん。

僕は速攻で10巻を注文した。

矛盾 

坂東眞砂子という作家が新聞にこんな記事を載せたとか。
日経新聞夕刊金曜日連載「プロムナード」より
一見もっともらしく聞こえるが、何か薄っぺらいものを感じた。直感は大事なので、この思いのまま行ってみる。

「もし猫が言葉を話せるなら、親猫は子を産みたいと言う」としたら、「子猫を殺すな」とも言わないだろうか。
『私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。』、では子猫の「生」の充実はどうでもいいのか。

そもそも子どもは親だけが生むものだろうか。子どもは生まれようとして生まれてきたのではないのか。それに親は快楽のために交尾をするが、それよりもっと純粋に生きようと思ってるのは子どもの方じゃないのか。ならば、そいつらが、大人になって味わう「生」は排除してもいいのか。

と、ここまで偽善者の方のmyhurt が言った。ここでもう一方のmyhurtが、

でもこの記事を見て、一方的に嫌悪感を覚えて糾弾する奴も人として信じられない。筆者は悪か?それならお前は善か?去勢する事に罪悪感は無いのか。
お前が同じ立場ならどうする。保健所も無いタヒチで野良猫を増やしたならどうなることだろう。
もし経済的に飼えなかったり、自分に赤ん坊や病身の肉親などがいたら、衛生上野良猫は排除すべきだろう。その時は、この筆者のようにするのではないのか?
え?タヒチには保健所が無いのかって?
そりゃ無いのだろう。自分で手を下すという事はそういう事だ。もし、保健所があるのに、自分で殺してたらこの筆者はやっぱりおかしい。

あれ?まだ偽善者myhurtががんばってるような気がする。。

++

この件知らなかったけど、嫌だなと思ったのは、この文章を載せたくせに反響が多かったので連載を打ち切る日本経済新聞の信念の無いジャーナリズムと、こんな文章を読まなければペットを飼う事の意味を考えない人間がいるという事実。

僕は犬が大好きだ。今も欲しい。しかし、飼うなら去勢するだろう。
しかし、去勢なんてひどい事をしてもいいのだろうか。だが、生まれた子犬をこの手で殺す事などできない。だから去勢はするが、その分、この子を可愛がってやろうと思う。でもこれは単なる人間のエゴなのではないか?
などなど色々考えるだろうが、それでいい。いろんな矛盾を孕みながら人間は動物を飼えばいいと思う。

何かと白黒つけようとするのが問題で、どちらの意見も矛盾だらけで善も悪も無い。
これはやはり新聞に載る記事ではない。もし、そんなことに白黒つけるなら、今のペットとしての犬や猫という存在自体どうなのかという事になる。
このあいだ、テレビで、一番バカな犬の種類は?というランキングをやっていた。人間が人工的に交配させて生まれた生命に対してバカとは何だバカとは。
それについて抗議した奴はどれほどいるんだ。この件と同じくらいいないとダメだ。

矛盾を孕んだ人間自体がそもそもの間違いだ。でも、その罪を背負って生きていくしかないじゃないか。そう考えると、極論には到達しないはずだ。
とりあえず、タヒチに保健所を作れ。日経新聞社、お前等が金出せ。

必要なもの 

生きている限りは、いい音を耳に入れておきたい。
体の中の不純物が音により浄化されていく。頭の中の汚れが音により浄化されていく。
そんな音を出す人を知っているということは、なんて幸せなことなんだろう。
今日、友人のライブを見てそう思った。

たぶん、音楽が好きなんじゃない。すばらしい音を出す人間が好きなんだ。

言葉にしたら陳腐だろうか。そうかもしれない。
でも、この気持ちはいろんな人に伝えたい。

今、自分の好きなものについてだけ語るブログを計画中。
人嫌いでも好きな人はいる。

お守り 

友人が軽く宗教っぽいものにはまっているようだ。
まだ説得するほどのものではないが、こういうのは本当に怖い。

++

「お守り」は自分で買うものではない。

交通事故にあったけどかすり傷ですんだ。お守りのおかげだ。

・・・お守りを持っていなかったら交通事故にすら遭わなかったかもしれない。

家族も元気で、今年一年無事に過ごせた。お守りのおかげだ。

・・・お守りを持っていなかったら世界平和がおとずれていたかもしれない。

つまり、お守りを持っていることで、運命が変わるとしたら、その逆だってありうるということだ。お守りを持ったがために悪いことが起きると言う事だってあるだろう。
結局、お守りというのは対した物ではなくて、そんなものを持っていても持っていなくても何も変わらないのだ。

だが、僕はお守りをもらうし、人にあげることもある。もらうとすごくうれしい。
お守りというのは、それをくれた人の気持ちを受け取るということだ。
自分で買って効用を求めるなんていうのは、絶対おかしい。

ただ、誤解されたくないが、僕は誰よりもカミの力を信じている。
ただ、そのカミというのは、自分がいるからこそあるのであって、カミがいるから自分があるというのは大きな間違いだと思う。

そんなことをまだ言わなければならないのだろうか友人。今年三十路だろ。

そこら中にある 

最近よく怒っている。言いたい事を伝えられない自分が悪いのだが、そのはがゆさに怒っている。

死んだら食えない。食えなくて死ぬ人とは違う。だから食う。
死んだら笑えない。笑えなくて死ぬ人とは違う。だから笑う。
死んだら見えない。見えなくて死ぬ人とは違う。だから見る。
死んだら死ねない。死にたくて死ぬ人とは違う。だから生きる。

この世の中は本当にそこら中に楽しさが溢れている。
それらは実は大したものじゃない。
雲の流れを見るもいい、季節の風の変化を感じるもいい、
米のうまさを感じるのもいい、子どもがそこらで遊んでる姿を見るだけでもいい、家族や恋人がテレビを見て笑っているのを見るのもいい。
すべてそこにつまっている。すべてそこに楽しさ、喜びがつまっている。特別な事じゃない。当たり前の事ばかりだ。
それらを維持して行く事は、辛いかもしれない。でも、それは必ず喜びに変わる。

悩みは想像から来る。
将来どうなるだろうかという想像、恋人の心が離れているのではないかという想像。
マイナスの方に想像力が働くのは分かる。人間は辛い思い出の方を思い出しやすいからだ。これは特別な事じゃなく誰にでもある事だ。

そうなる前に思い出して欲しい。普通の日を。楽しかった日を。
そういう日はまた来る。待たなくても来る。楽しい事と辛い事は巡るようにできている。
想像力とはそういう風に使うものだ。その日が来るまで、待つために、我慢するために使えばいい。

もう何度も言いたくない。届いていないのかと不安になる。
だから思い出して欲しいと思う。
前回の詩でもう全部言った。まだ届かないのなら何度でも言う。

ここにある。あそこにある。そこら中にもある。

凡能な煩悩 

よく寺の門前に墨字で書かれた標語が掲げてある。
以前見たものの中で、こういうのがあった。京都では比較的大きい寺の標語だ。

「人に指を差しても、他の4本は自分のほうを向いている」

おそらく、人に指を差して批難などすると、自分に返ってくるんだぞという事をうまく言ったつもりなんだろう。
だが、やっぱりひねり過ぎだ。「人に指差すな」これで十分だ。

ある寺にはこう書いてあった。
「死ぬのが怖いのではなく、無駄に終わる人生がやりきれないのだ」

まるで、死ぬのが怖い理由は、あなたが今一生懸命生きていないからだと言いたげだ。
しかし、これは絶対に違う。例えば病気で苦しんでいる人はどうなんだ。一生懸命生きていても死ぬのは怖いだろう。
これは全ての人に向けるべき言葉では無い。

僕は坊さんのこの手の一言が嫌いだ。嫌いゆえに、わざわざその標語を見てこうして今回のネタにしているほどだ。
「教えのごり押し」と言おうか。門前に掲げるくらいだから自慢の一言なのだろうが、そんなものは信者に説教するだけで十分だと思うのだ。

この前、京都の禅寺へ行った。石庭が有名だと言う事で行ってみたが、入るとまず土産物屋がある。なんて商売っ気丸出しなんだろう。
廊下の壁には大きな字が飾られているが、はっきり言ってしょうもない字だ。字と言うのは書いている人の人柄、ひいては人生まで映し出す。あの字は観光客から金をもらって、今までのほほんと暮らしてきたような字なのだ。
そこの坊さんが、頼んでもいないのに僕らを石庭に案内してくれた。他の客にはそんな事をしていないのに。長髪の僕を見て、こいつには禅の心など教えてあげないとわからないとでも思ったのだろうか。
しかし石庭などは、ゆっくり誰にも邪魔されずに見るからこそ味わい深いものだ。
なのにその坊さんは、石庭に置かれた石を指差し、「ほら、これ亀」「ほら、これ船」と、次々に説明し始めた。僕はすっかり腹を立てて返事をせずにいると、彼は僕らの元を去った。きっと説明しても無駄だと思ったに違いない。

僕にとっては、石がどのように見えるかが面白いのであって、石が何であろうと関係無い。
同じように、人生をどのように過ごすかが面白いのであって、人生が無駄かどうかはどうでもいい。いや、もっと言えば無駄な人生など無いと思う。
そんな事もわからない人がなぜ坊さんをやっているんだろう。

この寺が特別アホなわけじゃない。僕は坊さんの「ほとんど」がこうだと思ってる。
「ほとんど」、つまり数少ない立派な坊さんももちろんいるんだろうが、まだ会った事はない。

浮かばれない君のタマシイ  「笑」 

友達によると、僕はお笑いの話になると急に饒舌になるらしい。
確かに今考えてみると、何でも三日坊主だった僕がずっと続けているのは「笑う」という事だけかもしれない。

小学2年くらいまで、僕は毎日泣いていた。歳も離れて性格の合わない兄姉に毎日泣かされていた。今考えると、「泣く事」は自分が気にいらない事があった時にする自己主張の一つで、別にいじめられていたわけじゃなかったんだろうと思うが、とにかく泣いていた。

僕は家ではおとなしく、かなり内気な子どもだった。家に客が来るとすぐ自分の部屋に閉じこもってしまい、客が帰るのをひたすら待つ。あいさつをしたくない、それだけの理由だ。

その代わりというか反動というか、学校では元気だった。いかにみんなを笑わせてやろうかを考えていた。小学3,4年は似てない物まねとかをしてたような気がする。別に似て無くてもその当時はウケたし、それで満足していた。その頃はドリフやさんまが大好きだった。

小学4,5年で、僕はある芸人にはまった。当時、関西ローカルで「4時ですよ〜だ」という番組を始めたダウンタウンだ。
平日16時からそれは放送されるため、僕は毎日早く家に帰った。ポテチと牛乳を食いながら番組を見る、それが習慣となった。

・・・思い出した。そのポテチをいつのまにか食い尽くして僕は兄姉からしばかれるのだった。そうか僕が悪かったんだ。

僕は同級生と漫才トリオを組んだ。ダウンタウンのコピーをしたり、自分達でもネタを考えた。クラスの行事など、事あるごとに発表し僕は完全にお笑いにはまってしまった。

その頃、TVを見て腹を抱えている僕に言ったオカンの言葉が今でも耳に残っている。
「あんた、最近よう笑うようになってきたなあ」
なんなんだオカンよ・・・。



その後、中学に入ると僕は超ド級のネクラになってしまった。あまり詳しく言うと引かれそうだが、例えば、鏡で自分の顔を見ると吐き気を催すくらいだった。
しかしそれを緩和してくれるのが、やはりダウンタウンだった。
TVを見て笑い、次の日学校で友達と話をする。もし、あの頃そんな生活がなかったらと思うとゾッとする。

たぶん、ダウンタウンでお笑いが好きになったという人はたくさんいるだろうが、ネクラが治ったという人はあまりいないんじゃないだろうか。
笑いの話になると僕が饒舌になってしまうのは、単に好きだからというのもあるが、自分が助けられたという意識が強いのかもしれない。

++

最近まで、僕は昔話をし始めたら人間終わりだと思っていて、子どもの頃の記憶を封印していた。僕の中では、その昔が無かった事になっていた。

しかし、最近色んなことを思い出すようになった。たぶん、今は逆に言いたいのかもしれない。
今言わないと昔嫌いだった自分を忘れてしまいそうなのかもしれない。
今ならそんな昔も笑ってあげれると思うし、笑ってあげないとかわいそうだとも思うのだ。

「お前、何悩んでんねん。とりあえずお笑いでも見ろや」と。

まーぜーてー 

子どもの時から、人の遊んでる場所に入っていくのが苦手だった。

僕の地元では、例えば鬼ごっこをしている友達がいたとき、あとからその輪に入るには「まーぜーて」と大きい声で言わなければいけなかった。そして、みんなからの許可をもらうと一緒に遊んでもらえるのだ。

しかし、どうもその言葉が言えなかった。元気な時は言えるのだが、たいてい離れてじーっと見てて、入る?と声をかけられるのを待っていた。しかし入ってしまうと別になんともなく、一緒に遊ぶ事ができるのだ。

友達がいなかったわけじゃない。でも、友達が友達じゃないように感じる事があった。その日一緒に遊んだ子が、次の日には違う顔に見えた。僕は、その度にまーぜーてと言わなければならず、最初から輪の中にいる時はほっとするのだった。

あの感覚は今でもたまに感じる。しかし、さすがにもう子どもじゃないし、本当に入りたければまぜてと言える。苦手ではあるが。。

結局、周りの顔が違うように見えたのは、その友達も僕と同じように毎日毎日成長していたにすぎないのではないか。僕は自分の事しか考えていなかっただけではないか。そんな感じがする。

なんか最近子どもの時の事をよく思い出すなあ。

類友類 

類は友を呼ぶという奴だろうか、僕の友達には収集癖がある人が多い。CD、ビデオ、人形、本マニアをはじめ、カエルマニアに鉱石マニアまでいる。

全員に確かめたいところだが、そういう人は親もコレクターだったりしないだろうか。
CDを何千枚も持っている友達は、やはり親父さんがビートルズマニアだった。非常にうらやましい環境である。

僕の親父も多趣味で収集癖がある。
彼の専門は本、映画、カメラ、落語などで、全て僕も好きなものだ。
家族で一番話をしない存在だが、家族で一番趣味が合うのが不思議。手塚治虫もヒッチコックも桂枝雀もみんな彼に教えてもらった。

しかし、好きなものは微妙に違う。
彼は演歌が好きだが、僕は60年代の音楽が好きだし、
彼は花や風景写真が好きだが、僕は人物写真が好きだし、
彼はハリウッド映画も見るが、僕は見たくも無いし、
彼は歴史小説が好きだが、僕はSFの方が好きだ。
しかし、どうも親父が好きなものは気になってしまう。

++

子どものころ、僕が漫画をフガフガ読んでたら親父がこう言った。

「漫画はな、人物だけが描かれているんじゃないで。コマの端の方も見てみ、山や雲や建物、風景まで丁寧に描かれているんやで。」

目からウロコだった。実際に僕はその頃、漫画の人物と台詞くらいしか見てなかったからだ。

多趣味なのはやはり親父のせいだ。日本語や歴史にうるさいのも親父のせいだ。
普段、見落としがちなとこに目が行ってしまうのも親父のせいに違いない(体型だけは似なくてよかった)。

父親や家族をテーマにした映画や漫画を見ると、涙が出てくる。
公園やデパートなどで家族連れを見ると、なぜかウルウルしてしまう時もあった。
親父は余裕で元気なのに、何故だろう。
昔は、父親の話なんかをするのはいやだったのに、今は平気なのも何故だろう。

誰が歌なぞ歌ふものか みんな歌なぞ聴いてはいない 

本当は、毎日更新しようと思っているんだけど。

文章を書いて人に見てもらうからには、やはり楽しい話でもしてみんなに喜んでもらいたいところだが、そんなに毎日オモシロイ事にぶち当たるわけでもないし、思い浮かぶわけでもないし。かといって口を開けば暗い言葉しか出ないときは、やはり黙ってたほうがいいような気がする。
たかが日記なんだから、本当は何を書いてもいいんだけど、自分の中でこれは書いたら反則だという制約があって、それがいつも邪魔してる。

と考えていたら早川義夫さんがHPの日記でこう言っておられた。

「暗い話はしたくない。浮かれた話は控えたい。毒にも薬にもならない話は面白くない。ならばいったい何を書けばよいのだろう。」
(6月1日の日記より全文引用)

なんてタイムリーな。

早川さんのHPとうちとでは月とスッポンなんだけど、共感できる。
きっと誰もが自分の中で制約を持ちながら文章を書いているのだろうが、早川さんもそのバランスに敏感な人なんだろう。

自分をさらけ出さなければいいものは書けない。かといって、さらけ出した時に受ける周りの反応を考えるとやはり敏感になってしまう。

前回の蔵出し文章を見つけたとき、自分が書いた文章とは思えなかった。
治したいところもあったが、見習うとこもあった。
きっとあの時は、制約がもっと少なかったような気がする。
いや、その前に自分しか書けない文章を書いている実感があった。

++

暗くてもどこかに意味があって、人を傷つけることなく、自分も傷つける事無い文章、そして、楽しくてもどこかに意味があって、人をよろこばせて、なおかつ自分が楽しい文章が書ければ、そんな素晴らしい事は無い。
しかし、そんな夢のような文章などいつになったら書けるのだろうか。

でも早川さんが言うならまだしも、僕が言っても何の説得力も無い。
早川さんの言葉も、今回タイトルにした中原中也の言葉も、一度歌った人しか言えない言葉なのだから。

早川義夫公式サイト